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微分された世界で、自分なりに積分する

「文字というシンギュラリティ」を超えた人類がすべきこと
(能楽師 安田 登)

Future Society 22

異色の能楽師として多方面で活躍している安田登氏。言語学にも詳しい安田氏は「漢字の発明は脳の外在化を可能にし、人の意識に大きなインパクトを与えた」と論じる。それをシンギュラリティ1.0と数えれば、今我々が直面しようとしているのはシンギュラリティ2.0である。

シンギュラリティ1.0を乗り越えるために、人は論語や宗教を生み出した。であれば、我々が2.0を乗り越えるには何が必要か。安田氏との対談を通じて、22世紀を見据えた「人の可能性」を探る。

(聞き手: 柴沼俊一 / 構成:Future Society 22)

             

文字という外部装置が「心」を生み出した

――安田さんは以前、雑誌『Wired』の「紀元前に起きたシンギュラリティからの「温故知新」:能楽師・安田登が世界最古のシュメール神話を上演するわけ」と題した企画に登場されました。私はその記事で語られていた安田さんのお話に衝撃を受けたんです。「人間はすでに一度、シンギュラリティ(技術的特異点)を経験している」と。

安田:『身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から』(新潮文庫)にも書いたんですが、人類は文字の発明によって「脳の外在化」が可能になりました。文字という外部記憶装置が用意され、今その瞬間瞬間を生きることでいっぱいだった人間に余裕が生まれたところに、初めて「心」が生じたのではないかと思っています。

漢字の起源は約3300年前で、当時、すでに5,500種類以上の文字が生み出されています。しかし、その中に「心」という文字は、ないのです。「心」がないということは「悲」や「悩」などの文字もないということです。

「心」を意味する漢字は、それから300年ほど経った約3000年前の周の時代に登場しました。300年のタイムラグを経て生まれたこの「心」の登場で、人類は時間の前後関係や因果関係を認識するようになり、それまで感じたことのない将来に対する「不安」を初めて感じるようになるんですね。その不安を乗り越えるために、論語のような教えや宗教が生まれたわけです。論語の中心人物である孔子は、そんな中、約2500年前に登場しました。

――私はその論に我が意を得たり、という気持ちでした。テクノロジーが人の意識の在り方を変えたという構図は、現代にも通じるからです。

現代社会は、「テクノロジー優位で人間が追いやられる」といった不安感が漂っています。でも、安田さんの論に従えば、AIやロボットの発達によって迎えようとしているシンギュラリティは2回目、言うなれば「シンギュラリティ2.0」ですね。ということは、安田さんが説いておられる1回目のシンギュラリティを読み解けば、我々はこれからの未来をどう生きていくかが見えてくるのではないかと考えました。

安田さんは能楽師として日本の伝統文化に詳しく、また先に触れました『身体感覚で「論語」を読みなおす』もそうですが、非常に独創的な発想の本を出されています。特にこの本は、能がもつ身体性、文字というテクノロジー、人の意識という3要素の関係を構造的に描いていて、非常に面白いと思いました。

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安田登(やすだ・のぼる)

1956(昭和31)年、千葉県銚子生れ。下掛宝生流能楽師。能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演も行う。また、日本と中国の古典に描かれた“身体性”を読み直す試みも長年継続している。著書は『身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から』(新潮文庫)など多数。

安田:実は高校2年以降はほとんど学校に通わずに、バンドをやっていましてね(笑)。夜はバンド小屋で麻雀とポーカーばっかりで家にも帰らない生活をしていた時に、「トランプは13枚でワンスイート(一組)を構成しているのに、麻雀はなぜ9枚でワンスイートなのか。トランプは4ファミリーなのに、麻雀はなぜ3ファミリーなのか」ということを考えたんです。これが、甲骨文字を勉強しはじめたきっかけです。

麻雀の牌にはピンズ(筒子)、ソウズ(索子)、マンズ(萬子)という区別がありますが、マンズだけ文字なんです。ピンズとソウズは見方によっては、それぞれ竹を横から見た形、縦から見た形に見える。でもマンズだけは漢字である。変だ、と。

甲骨文字を調べると、「萬」という漢字と「亀」という漢字は似てるんです。「亀は萬年」と言います。亀が萬に変わるのは文字が似てるからなんですね。つまり、もともとマンズは亀に由来しているんじゃないかと考えました。古典に当たりますと、「亀は大きな占いに使い、竹は小さな占いに使う」と書いてある。となると、かつて麻雀は占いだったんじゃないかと。

そうやっていろいろ調べていった中で、甲骨文字には「心」という文字がないことに気付いたんですよ。「りっしんべん」が付く漢字も含めて、ない。

――漢字が登場したのが3300年ほど前。そして漢字に「心」が登場するのは3000年ほど前。その300年ほどの間に、漢字を使う人々の間に「心」という概念が生まれたのではないか、というお話ですね。

安田:はい。「心」というのは本当に興味深くて、生きている環境によってその現れる様はまちまちです。例えば私の生育環境は漁師村でした。周囲はみんな中学を卒業したらすぐに漁師として働きに出る。彼らにとって「人が死ぬ」というのは、それほどおおごとじゃないんですよ。もちろんその瞬間はおおごとですけれども、引きずるものではない。

――漁師で海に出るとなると、生死はつねに隣り合わせ、だからですか?

安田:そう。漁師たちがよく使う言葉で「板子(いたご)一枚下は地獄」というものがあって、船底の板一枚外れたらいつでも死ぬという世界観を示した言葉です。だからそんなに大きな財産を作り上げようとか、そういうことにこだわらない風潮があります。だから、いい高校に行っていい大学に行って、といったような未来をあんまり考えないんですよね。これはまた興味深いことで、だからこそ、未来に対してむやみに不安を覚えることがあまりない。

       

自らの将来の姿を問う社会は、子供の可能性を狭めてしまう

――自然に近い暮らしの中で、生きていることそのものに対して感謝するような生き方のほうが、シンブルでしかも悩みがなかった、ということなのでしょうね。明日死ぬかもしれないという引き締まった事実に日々直面していると、逆に人生に不安がやってこない。こう考えていくと、テクノロジーを得た我々人類は進化しているのか、それとも退化しているのか分からなくなりますね。

安田:私は実際、退化している部分があると思うことがよくあります。例えば、子供に「大きくなったら何になりたいか」という質問を投げかけることってよくありますね。でも私は、未来を問われることによって、逆に彼らの未来は狭まってしまうんじゃないかと思うんです。

私は、よく小学校に能の授業をしに行くのですが、ある公立小学校に行ったとき、教頭先生からこんな話を聞きました。4年生の男の子が廊下で泣いていた。なんで泣いているのか聞いてみると、「自分は私立の小学校入試で落ちて公立の小学校に来た。今自分は4年生で、このままでは中学校入試も落ちるんじゃないかと。自分の人生はもうおしまいだ」ということで泣いているらしいと。この教育システムの中で、彼は小学校4年生の時点で自分の人生の先行きを憂い嘆いているわけです。

――ある小学校では、6年生の時に「将来何の仕事に就きたいのか」を1年かけて考えさせる。さらにPTAのお父さんやお母さんが今どんな仕事をやっているのかを説明する機会もある。そうしたことを経て、子供たちには卒業式の時に「私は将来何々になります」と一人ずつ宣言させる。子供たちは「歯医者さんになりたい」とか、きわめて現実的なことを言うわけです。みんな何か決めて宣言しなければいけない。「まだ決まってません」って勇気を持って言える子供は一握りだとか。

安田:少なくとも、その子供たちが宣言している仕事の中には、今存在していない職業は入ってないわけですからね。これからはそういう職業のほうが多くなりますよね。だからこそ、未来を子供のうちから考えさせるのはどうかと思うんです。

――我々大人が率先して変わるべきですが、社会の風潮が変わりにくいことを考えると、子供は自ら“防衛”を心がける必要があるかもしれません。

               

GDPが低減していく社会。残される価値は何か?

安田:昔、中小企業診断士をとろうと思って勉強をしていた時に、これって変だと感じたことがありました。損益分岐点がその1つです。固定費と変動費と利益が示す関係性を差していますが、これを2次元のグラフで見せられてしまうと、その裏にあるリアルな世界が薄まってしまう。

 

例えば収益が悪化した場合は、固定費を削るのが定石ですね。そして、固定の主要なものといえば人件費と地代家賃です。ところが家賃と削った場合と人件費を削った場合では、その影響は違いますでしょ。人には感情がありますから、固定費として削られた人は痛みを感じる。本人だけでなく、家族もです。さらに「彼の次は自分かも」と思い、思い切った提案などができなくなる。

 

もし、このグラフが3次元ならば、Z軸に「人」を入れることもできる。そうなると、まったく新しいモデルができると思うのです。もちろんこれは極端な例かもしれません。ですが、3次元という現実を2次元に落とし込んだものを学ぶことの危険性について、受け手自身が注意しておく必要があるでしょう。そう考えると試験勉強って実は危険です。学生に疑問を持たせず、どんどん進めていく。ちょっと待った!と思っても、待ってくれないですからね。

――中小企業診断士が企業の利益を見るのに対して、エコノミストはGDPを見て、そこに価値を見いだします。GDPは、お金と交換されるものが価値になる、という定義なんです。

でも実際に人間が価値と見いだすものには、もっといろいろあります。こうやってお話を聞くこともそうですし、SNSで「いいね!」を押されるとうれしいというのも価値です。しかしGDPで評価する以上、それは価値だとみなされない。日本はGDPが500兆円ありますが、これは約20年間変わっていませんね。でもGDPが伸びていないから日本はまずいと論じるのは正しいのか?冷静にとらえると、違った見え方ができますよね。

もう一つ。GDPは交換を価値として見なしているので、仮に一人ひとりが万能で他者と何も交換する必要がないとすると、GDPはゼロになります。逆に、人が不自由になって誰かに頼る構造になるとGDPが増えるわけです。

翻って今のテクノロジーや社会システムは、すべてのサービスをセルフ化させる方向に向かっています。つまり、セルフ化が進めば進むほど、GDPは伸びなくなる。でもテクノロジーで個人が増力化しているわけですから、GDPが減っても実は問題ない、という見方もできます。我々はそろそろどこかで「価値」の定義の発想を変えていいのかもしれません。

         

「微分」された世界においては、自力で「積分」することこそが大切

安田:思考回路を変える、という意味では、実はデジタルツールが使えるかもしれないと思っています。MR(拡張現実)が普及し低価格化することで、例えば子どもたちがゲームや勉強などで普通にMRを活用し始めた場合、彼らにとっては3次元のグラフを扱うことが普通になるんじゃないかと思うんです。子供たちが普通に触れるツールが2次元から3次元に変わるだけで、思考様式も物事の捉え方もずいぶん変わるんじゃないかと予想しています。

――以前から安田さんがおっしゃっている、「身体を拡張するツールを得ると思考様式が進化する」というお話に通じますね。

安田:はい。人類は文字を発明したことで脳の外在化を実現したわけですが、文字ができた同時期に、戦車としての馬車が生まれているんです。馬車とはすなわち、足の外在化、ないしは足の拡張です。

馬車によって足が拡張されて、今まで考えられなかったスピードで目的地に到達できるようになった。そうするとあらゆるものごとの発想が根本的に変わってくる。MRなどは典型的な身体の拡張ツールです。再び同じことが人間に起きる可能性、ありますね。

――私は「ヴジャデ」という言葉をあえて使っています。デジャヴの逆です。デジャヴは、「なんか見たことあるな」という既視感ですが、ヴジャデは、「目の前にある在り来たりなものの中に、新しい要素を見つける」という意味です。

安田:なるほど!「ヴジャデ」、面白いですね。そのようなオリジナルな尺度を持っておくことは、すごく大事ですよね。世界を積分することにもつながりそうです。

たとえば、羊という甲骨文字があります。これは羊を前から見た様子を描写しています。犬という文字は横から見た様子を描写している。

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牛も前から見た姿です。羊や牛は家畜として数える必要がある。しかも、角で数える。だから数えやすいように前から顔を見た様子を文字にする。

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他の動物は、そこまで厳密に数える必要がないからほとんどが横から見た形。文字に置き換えるという作業は、3次元の世界を2次元に微分することだといえるでしょう。しかも、それはある時は前、ある時は横とかなり恣意的です。それをきちんと踏まえた上で文字を扱えばいいのですが、人は学ぶ中でその文字化された微分の世界を一生懸命理解しようとするので、部分的な理解に陥ってしまう。でも本当に大事なのは、そうやっていろいろな方向で微分されたものを、どう自覚して、自分なりに積分し、「理解を深めていくか」、ということなんです。

最近、古典や名著を要約したムックが流行っていますが、そうしたムックばかりに頼る傾向は危険だと思っています。私は若いとき古典ばかり読んでいました。古典って読み解くのにものすごく時間がかかります。古典というのは、ゆっくり読んで初めて意味が立ち上がってくるように書かれているんです。だから速読は意味がない。むしろゆっくり読まないと意味がない。ゆっくり読むから、自分の中で形成されてくるものがあるのです。

――「すぐに分かる何々」といった解説本ばかり好んで読んでいる状態は、離乳食ばかり食べさせられて、それに慣らされているような感じですね。

古典を読んでじっくり読み解くという作業は微分された世界を自分なりに積分することになりそうですが、解説本を読んで分かった気になるというのは、微分された世界をさらに微分するような、おかしな状況なのかもしれません。

安田:古文を読むには本当は謡(うたい)のように声に出して読むのが正しいのではないかと私は思っています。

 

古事記は「あめつちの……(注:節を付けて謡っている)」と読んでいくことで初めて力を持ちます。日本語の文章というのは明治時代くらいまでは、謡のように声に出して読むことを前提としていたんです。授業では、先生が声に出して読んで、生徒はそれを聞くことで理解していました。

 

夏目漱石の『吾輩は猫である』は、高浜虚子が朗読して面白いということで、新聞連載が決まったと言われています。そういうわけで昔の日本の文章は全部、朗読がベースなんです。夏目漱石は、声に出して読んでみると、その文章の力をより実感できます。ちなみに泉鏡花や三島由紀夫、中島敦なんかも声に出して読むといい。

 

ある若い人が「高校時代は参考書ばかりひたすら読んでいて、古典なんか読まなかった」と言っていました。受験勉強という不安によって煽られて、ひたすら実用書ばかり読んでいたわけです。一方で理系出身でもニーチェをひたすら読んでいたという人がいますが。

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――私は大学に入ってからひたすら経済学の古典を読みふけりました。そうしたらようやく社会とのつながりが生まれたような感覚がありました。安田さんの微分・積分のお話で言えば、古典を読み続ける中で、現実世界と自分なりに積分した世界という2つの間にある共通点や差異を見いだしたのかもしれません。

安田:今の10代20代は、そういう機会はもっと少なくなっている可能性がありますね。大学でも「卒業論文より就職活動を優先しなさい」と言われるほどになっているようですから。大学でも生徒に受けのいい先生が評価される傾向があるようです。

”Keep it complex”--「モヤモヤ」と勘、そこに真実がある。

――人が外部の評価によってようやく存在しているという社会は危ういとも思います。日本の若者は今、大学を出るまでは与えられた答えを覚えさせられて、深く考えるような機会も与えられていません。その一方、社会に出たら突然「自分で考えて自分で答えを出せる自律的な存在になれ」と言われて、とてもギャップがある。非常に矛盾した構造にさらされています。

これからの時代、社会はどうあるべきかを自分なりに考える力が身につかないままだと、非常に苦しいと思うんです。自分なりの考え方を持てなければ、大学までは試験の成績、社会に出てからは会社の評価といった具合に、ひたすら外側の物差しに振り回されて生きることになりますから。

安田:ひとつは「モヤモヤ」なことを「モヤモヤ」なままに引き受けること。早く結論を出したり、簡単に要約をしたりしようとしないことです。「あ、それはこういうことですね」という風に言わない。”Keep it complex”です。

 

そしてもうひとつは、勘を大事にすることです。単純な話ですが、例えば傘を持っていくかどうかを自分で決める。人は意外に意識的にやっていないですよね。天気予報に言われるがままに、なんとなく決めている。私は先ほど申し上げたように漁村で育ちましたから、そういう感覚は小さい頃から磨かれてきたように思うんです。漁師の人たちは、雲や海や風で決める。私はなぜか必要な時に必要な人に出会うということが多いのですが、これは勘を大事にしているからだと思います。

 

私が能に関する書籍をたくさん出させていただいているのも、そういう「出会い力」があったからです、この出会い力の裏には、私が「モヤモヤ」と勘を大事にしてきたからではないかとみています。

 

「頭では正しいと思っているけれども、なんか感覚としてやっぱり違う」と感じることがありますよね。現代人の多くは、これを「うまく説明できない」という理由から切り捨ててしまう。でも身体性の観点から考えてみると、それは通常の思考とは別の感覚できちんと捉えているはずだから、「違う」と感じるわけです。

 

そういった「違う」という感覚は重要なキーになります。今は説明できなくてもいい、でもそのうち説明できるかもしれないから「違う」を大事に持っておく。こうしたセンスは勘とも通じていて、これからの時代に逆に大切になってくると思います。

――最近はデータによる判断の重要性が言われていますが、それと逆ですね。でも、テクノロジーも大事ですが、おっしゃるようにテクノロジーに振り回されないために自分なりの感覚を磨くことも大事です。

安田:私は以前平川克美さんと対談しているのですが、平川さんは『21世紀の楕円幻想論』という本を書かれています。この書籍でおっしゃっているのは、自分の中に2つの違う“中心”があると、楕円ができていくというお話です。1つの中心では単純な円にしかならないけれども、2つの中心を持つと楕円になり、より立体的に物事を捉えられるようになります。

――テクノロジーが個人の格差を拡大すると言われています。ですが、個人が身体感覚を大切にしながら楕円を指向していけば、その人ならではの存在感や個性がより輝く可能性が高まります。楕円の集合体たる社会はFuture Society 22が提唱している「共感資本主義」の在り方の1つといえそうです。今日はありがとうございました。

※このブログは「Future Society 22」によって運営されています。「Future Society 22」は、デジタル化の先にある「来るべき未来社会」を考えるイニシアチブです。詳細は以下をご確認ください。

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