東京大学を卒業し、寺の跡取りではないにも関わらず、僧侶になるという異色の進路を選んだ松本紹圭氏。神谷町光明寺の僧侶となってからは、僧侶向けの経営塾やインターネット寺院「彼岸寺」の創設、お寺のスペースを開放する「お寺カフェ」の運営など、仏教界に新風を巻き起こしてきた。そんな松本氏が今フォーカスしているのが「掃除」だ。掃除は国境や宗教、人の心にある壁も越境していくという氏の考える未来社会、「ポストレリジョン時代」とはいったいどんな時代なのか。(聞き手:柴沼俊一/写真:内山その/構成:崎谷実穂 瀬川明秀)
松本紹圭(まつもと・しょうけい)
1979年北海道生まれ。東京神谷町・光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader。武蔵野大学客員准教授。東京大学文学部哲学科卒。2010年、ロータリー財団国際親善奨学生としてインド商科大学院(ISB)でMBA取得。2012年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開講し、7年間で600名以上の宗派や地域を超えた若手僧侶の卒業生を輩出。近著に『掃除道入門 SOJI-DO こころを磨く、世界を磨く掃除の教え』。お寺の朝掃除の会「Temple Morning」の情報を自身のツイッターで発信中。最近はnoteでも情報発信中。
オープンスペースに経営塾。お寺を変革する試み
—— 松本さんは、東京・神谷町「光明寺」の僧侶であり、仏教の世界を変える活動を多数手がけられています。本日取材をしている光明寺でも、意欲的な取り組みをたくさんされていますよね。本堂前はイスとテーブルが並べられていて、カフェのテラスのようになっています。誰でも参加できる、朝に境内を掃除する活動もされていますね。
松本紹圭(以下、松本):本堂前のテラスは「神谷町オープンテラス」と名付けて、オープンスペースにしているんです。朝や昼には、コーヒーやランチなどをお持ちになってくつろいでいらっしゃる方がたくさんいます。掃除は「テンプルモーニング」ですね。テンプルモーニングはうちだけでなく、全国各地のお寺でも実施されている活動です。
—— お寺って、こんなに気軽に入れるところだとは知りませんでした。お坊さん向けの経営塾も開かれていますね。お坊さんが経営?と思いましたが、松本さんは2010年にインド商科大学院でMBAを取得されているんですよね。
松本:はい。MBAを持っているから経営塾をやっているというわけではないのですが、お寺もやっぱりマネジメントが必要なんですよ。お寺というのは現在、全国に7万もあるんですよね。これまで檀家制度というものの上に成り立っていたわけですが、檀家制度が失われつつある今、経済的に苦しいお寺も増えてきました。お坊さんの生活が成り立たないのは、それはそれで困る話ですが、日本の風景としてのお寺が消えていってしまうのはやはり寂しい。そこで、お寺を預かっている住職の方、これから住職になる方にむけて、これからどうしたらいいのかを考える学びの場が必要だと思ったんです。そこで2012年に創ったのが「未来の住職塾」です。お寺同士って仏教という共通項がありながら実はなかなか一つになれないんですよ。宗派意識がすごく強くて。
—— 宗派というのは、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗などのあの宗派ですよね。
松本:はい。宗派によって、やっていることも実は結構違います。「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えるところもあれば、座禅するところ、護摩を焚くところもあって、共通の行動がほぼないんですよ。傍から見ていると、同じブッダから始まった宗教なのだから、仲良くすればいいのにって思うかもしれませんが(笑)。
—— そんなに壁があるとは思っていませんでした。
松本:お墓や葬式など、一般の方向けの関わり方は一緒ですからね。でも、そんな宗派ごとの壁も、マネジメントというテーマで集まってみると崩れるんです。悩んでいることは一緒だったりする。始めた当初はあまり意識していなかったのですが、結果的に宗派をこえたコミュニティを創り出したことが、仏教世界の文化に変化をもたらしたんじゃないかと思っています。
特に若手の僧侶は、宗派を超えて行動する人同士でつながっていっていますね。未来の住職塾は今年で8年目になります。年数が経つと卒業生が増え、今では600名以上の卒業生を輩出しています。そうなると1年のプログラムの学びはもちろん、卒業後のつながりの価値がすごく大きくなるんですよね。そのつながりが地域ごとに、お寺が中心となる活動の原動力になる。点だったものが線に、そして面に発展することで、大きな社会資産となり、社会を変えていく力になると思っています。
宗教への期待と違和感から、僧侶の道へ
—— お寺のお供え物を活用したおもしろい取り組み、「おてらおやつクラブ」の話も聞きました。
松本:「おてらおやつクラブ」は、全国のお寺と支援団体、檀信徒、地域住民が協力して、お寺の「おそなえ」を仏さまの「おさがり」として頂戴し、子どもをサポートする支援団体を通して経済的に困難な状況にあるご家庭へ「おすそわけ」する活動です。
2013年に始めた活動で、今はNPO法人おてらおやつクラブという名前で独立しました。おやつの活動の発起人でもある松島靖朗さんが、代表理事を務めています。松島さんは奈良県の安養寺の住職です。現在、全国で1305の寺院が参加していて、お寺が直接支援するというよりは、おやつが地域の支援団体とご家庭をつなぐための接着剤になっている、という感じです。お寺は、後方支援をする役割を担っています。実態として、支援団体さんが経済的困難を抱えるご家庭とつながり続けること自体が難しいという側面もあるようです。
—— どうして難しいのでしょうか。
松本:表面的には困っていないように振る舞うよう、それぞれの家庭に無言の社会的圧力がかかるからではないでしょうか。経済的に困っていることを恥ずかしいと思う気持ちが、支援団体とつながることをためらわせてしまうことがあるそうです。でも、月1回おやつを送ってもらえたら、お子さんは喜びますよね。そして影にはお寺の支えがあるということが、その団体とつながり続けるインセンティブになるようです。
その仕組みが評価されて、昨年グッドデザイン大賞を受賞しました。松島さんは、貧乏と孤立がつながって「貧困」になるんだとおっしゃっています。だからこそ、孤立しないためにお寺としてできることがないか、考えたんだそうです。
—— たしかに、直接的な支援よりも「お寺のお供えものを活用するために、月1回おやつが送られてくる」という方が、心理的負担が軽いかもしれません。家庭と支援団体、お寺、地域をつなげる仕組みなんですね。本当にいろいろな活動に取り組まれている松本さんですが、そもそもどうしてお坊さんになろうと思われたんですか?
松本:もともと宗教に興味があったんです。祖父の家もお寺でしたし。もっと広く言えば、いかにして生き、いかにして死んでいくのか、私とは何者なんだろうか、ということをずっと考えていたんです。
—— だから、大学は哲学科に入られた。
松本:はい。あとは、宗教に疑問も抱いていたんですよね。1995年にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こったことも、大きかったと思います。人間としての根源的な問いを探求していくはずの宗教が、なんとなく気持ち悪さももっている。宗教ってなんだろう、宗教ってもっと変えられるんじゃないか。そう思ったときに、研究者として関わるよりはプレイヤーになりたいと思い、僧侶になる道を選びました。
—— なるほど。それで、仏教の世界を変えていくようないろいろな活動を始められたんですね。
松本:最初は単純に、宗教の気持ち悪さというのは新興宗教が持っているものではないか、と思っていました。対して伝統仏教はいいものであるはず。それでお寺カフェなどのいろいろな取り組みをして、お寺や仏教がもっと身近になったらいいと考えていました。でも、それで気づいたのは伝統仏教だって、そんなに手放しで褒められるものではない、ということ。所詮は人間がやっていることなので、多かれ少なかれ、新興宗教と似たようなおかしさがあるんですね。
ブッダは「唯一の正しさへの依存」からの脱却を説いている
松本:宗教の持つおかしさ。その根源には、唯一の正しさへの依存心があると考えました。私はそれを”Religious(レリジャス)な意識”と呼ぶことにしました。これは、宗教だけでなく人間社会のあらゆるところに蔓延っているんですよ。例えば、ナショナリズムもそうですし、日本には会社に過度に依存している人がたくさんいますよね。
—— テクノロジーを信奉している人もいますね。
松本:唯一の正しさに依存しているのは、あまり健康なメンタリティではないんですよね。それによる社会の弊害も噴出してきている。仏教もまあ、宗教団体となるとレリジャスになってしまうわけですが、オリジナルブッダは違うんですよ。ブッダが説いた道というのは、むしろ唯一の正しさへの依存から脱却する、ということなんです。なにかに執着することから離れましょうと説いている。ブッダが言っていることは、脱レリジャス、つまり「ポストレリジャス」なんですよ。だから、仏教徒になるまではいかないけれど、ブッダの教えに興味関心を持つ人が世界的に増えている流れは、よく理解できるのです。
—— では、私たちはこれからなにかに執着したり、依存したりしないように生きていくべきなんでしょうか。
松本:…と思いますよね。でもそれはそれで無理だと思うんですよ。「ブッダ」は「目覚めた人」という意味で、何にも依存しない存在です。でもそれはブッダだからこその境地であり、みんながそうなれるかというとそんなこともない。私もそうです。日々、なにかに依存したくなったり、何かを正しいと思いたくなったりする。そこで、熊谷晋一郎さんの「自立は、依存先を増やすこと」という言葉を参考にしようと。
—— 熊谷晋一郎さんは、東京大学先端科学技術研究センター准教授で小児科医をされています。脳性マヒで車椅子生活をされているんですよね。
松本:そうです。この言葉は、よく引用させてもらっています。ブッダになれない人間がよりよく生きていくためには、健康的に依存していけばいいんですよね。
—— 一つに偏りすぎず、依存先を分散すればいい、と。おもしろいです。未来の住職塾やおてらおやつクラブのお話をうかがっていて思ったのですが、これからは、つながり、社会関係資本が重要な価値になるのではないかと。それは私たちが考える未来のあり方に近いと思いました。
私たちは、「何が一番価値だと感じられているか」が社会を変えるドライバーだと考えています。農業社会だった頃は、「収穫」という価値。その後の金融資本主義の時代は「交換」という価値。そして、ある一定の生活水準を超えてくると、自分がどう感じたかという「主観」や、人とつながる「社会関係」が一番重要な価値になってきます。
そこで私たちFuture Society 22は、価値を生み出すメカニズム、つまり社会のオペレーティングシステム(OS)がどう変わるのか、ということに注目しています。現在の「交換」の価値を最大化できる枠組みは、「国民国家」と「株式会社」。国民国家でありながら、昔から株式会社が自由につくれた国はアメリカです。だからこそアメリカは一気に経済成長したのでしょう。でも、価値を生み出す仕組みというのは、人間が作り上げた「虚構」と言ってもいいかもしれません。ですから、今後「主観」や「社会関係」が価値となってきたら、社会を動かす「虚構」も変わってくるのかもしれません。
ポストレリジョン時代は「虚構」と適度に付き合っていく
松本:ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(河出書房新社)でも、貨幣や国、宗教は「虚構」だと書かれていますね。虚構によって社会が成り立っている、と。でも、ポストレリジョン時代にはそれも変わるんじゃないかと思っているんです。先程、ブッダはそもそもポストレリジャスだったという話をしましたね。ブッダが説いた悟りの道は、すべての虚構を見破る知恵だと言ってもいいと思うんです。それが、ブッダが悟りに至るための正しい行いとして説いた「八正道」の第一である「正見」です。
—— まさに「正しく見る」ことだと。
松本:たしかにこれまでは、価値にそって見えない虚構をうまくつくった社会が、経済的に繁栄してきましたよね。多少はこれからもそうだと思うんです。人間はレリジャスな感覚が常にあり、「正しく見れ」ませんから。でも、虚構がこういうふうに虚構と言われてしまった時点で、今まで通りの虚構としての機能は果たせないのではないでしょうか。
—— うーん、そのとおりです。
松本:だから、考えるべきなのは「次の虚構は何か」でもないんだと思います。何かが絶対的なものとして現れても、「所詮、虚構だよね」と括弧付きのものにならざるを得ない。それこそが、ポストレリジョン時代だと思います。虚構が完全になくなることはないと思いますよ。でも、それ一つで社会を動かす絶対的なものではなく、多極化していくのではないかなと。それらの虚構と適度に付き合っていく、ということになるのかもしれませんね。
—— なるほど……ポストレリジョン時代は、私たちの考える未来よりも先をいっているのかもしれません。では、そこでは何が大事になってくるのでしょうか。
松本:「掃除」ですね。
—— え。あの、部屋をきれいにする掃除ですか?
松本:はい。掃除はすごいんですよ。普通の暮らしに、いかに仏教の知恵が生きうるかと考えたときに、新しいことを生活の中に入れるのは大変ですよね。その点掃除は、誰の生活の中にもある。最近、より良く生きる知恵としてはマインドフルネスが盛り上がっていますが、あれは最近現れた新しい行為ですよね。
—— そうですね。
松本:マインドフルネスは都市生活者には、いい入り口だと思います。私は最近、宗教を論じるときには、国別に論じるよりも都市生活者かそうでないかで分けたほうが妥当だと考えているんです。同じアメリカにいても西海岸・東海岸にいるか、中部の田舎にいるかで文化的環境は大きく違う。ダボス会議のヤンググローバルリーダーズで会うような都市生活者は、国や家の宗教に関わらず「毎朝、マインドフルネス瞑想してます」という人がけっこういるんですよ。
—— わかります。ビジネス界隈にも多いですね。
松本:でも、日本の田舎のお寺に法話に行くと、聞いてくださっているのはおじいちゃんおばあちゃんだったりする。この方々が、マインドフルネス瞑想をするイメージがわかなくて。「クリエイティビティが上がります」とか、関係ないんじゃないかと。でも、大乗仏教としては「誰でも実践できること」が大事なんですよ。そこで、掃除なんです。
—— 掃除なら都市生活者も、田舎に住む人も、みんな掃除はしますもんね。
松本:また、掃除は体を動かす行為であることもいいんです。先程の話と関連するのですが、人間の社会は虚構によって発展したけれど、それによって苦しんでもいますよね。虚構によって100%自分をドライブすることができるって、すごいけれどまずいことだと思うんです。だって、「お金のためなら死ねる」ってそもそもおかしいじゃないですか。
掃除は国境も宗教の壁も乗り越えていく
松本:素朴に考えると変だな、ということに気づくためには身体性が重要なんだと思います。考えてばかりいると頭のほうが暴走して、虚構に引っ張られてしまう。それを引き戻してくれる日々の素朴な営みが、見直されていくのではないでしょうか。あと、掃除はいくらやっても競争にならないんですよ。あいつより、自分のほうが葉っぱ1枚多く掃いたぞ、とか思わないですよね(笑)。
—— 掃除は同じところで競うのではなく、役割分担してやるものですもんね(笑)。
松本:そういうチームビルディング的なコミュニケーションでもあるんです。もう一つ、掃除はやった実感が得られることがすごくいいんですよ。今は、仕事でもなんでも、やってはいるけれど達成感が得られない、世の中の何の役に立っているのかよくわからない、という人が多いんです。でも掃除は、やれば確実に前に進む。成果が絶対に出る。その小さな成功で、日々生きている実感が得られる。
—— 仕事のやりがいが得づらい社会。でも、掃除は目に見えてきれいになりますもんね。
松本:仏教の世界でいうと、宗派によってやってることにあまり共通点がなくて壁があった、と言いましたけれども、掃除は日蓮宗でも浄土真宗でも禅宗でも、みんなやります。しかも、これを「日本発」でやることに意味がある。
日本の仏教って、世界からすると舐められてるというか、一応お坊さんの仲間に入れてあげようか、くらいの存在なんです。お坊さんでありながら家族もいるし、出家していなかったりするので。そんな日本の仏教が唯一、世界の仏教に対して自慢できるのが、お寺がきれいであることなんです。日本仏教から掃除カルチャーを発信し、掃除というプラクティスを通じて掃除説法みたいなことをやっていくのは意味がある。掃除は、日本文化を輸出する世界戦略の中核に置くべきものだと、私は勝手に信じています(笑)。
—— どんどん話が広がってきました(笑)。掃除にそんな可能性があったとは。
松本:さらにいえば、掃除は宗派を超えるだけでなく、宗教も超えるんですよ。私がバチカンに行ってお経をあげようとしたら、たぶん止められると思います。でも、「掃除させてください」と言えば、どうぞどうぞとなる。そして、僧侶がバチカンの掃除をする姿はすごくメッセージ性があると思います。
—— ああ、たしかにそうですね。
松本:越境していくというメッセージですよね。宗教というのはこれまで特に、壁をつくるという人間のあり方の象徴でもあった。だからこそ、みんな宗教にうんざりしているところもあるわけで。宗教の中にいる人が、掃除で壁を超えていく姿を見せるのは、社会にとって意味があると思うんです。世界とまで言わなくても、隣町のことでも同じです。町に知らない人が入ってくると、住民は警戒しますよね。でも、その知らない人が箒を持っていたらどうでしょう。
—— あ、お掃除してくれる人かなって思いますね(笑)。
松本:そうなんですよ。印象がぜんぜん違うんです。掃除してくれるなら「ありがとう」ですよね。隣同士でも、ただ家の前に隣の家の人が立ってたら不審ですけど、掃除してくれてたら「ありがとう」となる。その越境性がすごいんです。
—— 自分の家の前だけでなく、隣もきれいにしよう。その気持ちがあると、掃除の精神が広がっていきますよね。
松本:教訓として語ることは簡単ですが、じゃあ何をするの? というときに、掃除は本当にわかりやすく、目に見える形でできる。プラクティスとしてすごく優れているんですよね。とまあ、いろんな要素からみて掃除がすごすぎるので、今私は掃除に力を入れているんです。
檀家2.0で新しい地域コミュニティをつくる
—— 私も、少し前にこちらの「テンプルモーニング」で境内の掃除をしてみました。改めてここでやってみると、始まりも終わりも自分で決めなければいけないんだなと感じました。特に終わりですね。どう考えても、きれいになりきってないんですよ(笑)。
松本:掃いても掃いても、また葉っぱは落ちてきますし。
—— 少し、「まあいいか」と思わないといけないんですね。
松本:そのあたりのことを、先日noteにまとめました。5つのポイントのうち、最初が「『八九成』で掃除する」ということ。完璧を目指すとかえってうまくいかないんですよね。
—— 私は会社がこの近くなのですが、光明寺に足を踏み入れたのはテンプルモーニングが初めてだったんです。神谷町に創業して10年、一度も入ったことがありませんでした。
松本:お寺は、勝手に入っていいものとして認識されていないんですよね。そのお寺の檀家さんしか入ってはいけない、と思っている人は多いと思います。でも、今は檀家というものを再定義する必要があると思っていて。これまでの檀家の「家」は、◯◯家という親族集団を指していました。じゃあ「壇」の方はなにかというと、この語源は「ダーナ」なんです。
——「ダーナ」はどういう意味の言葉なんですか?
松本:インドの言葉で「与える」という意味で、漢字にすると「檀那」「旦那」となり「布施」という意味がある。英語の”Donor(ドナー)”の語源でもあります。布施をする人たちのコミュニティを「檀家」と呼ぶなら、「家」の方の意味を少し変えて、光明寺ファミリーという意味での「家」にしたらどうかと思うんです。拡張家族というイメージですね。
—— 親族集団の「家」に限らず、もっと光明寺に関わる人をファミリーと呼ぼうと。それは新しいですね。
松本:檀家2.0ですよ(笑)。当てずっぽうの予想ですけど、私は遠からず檀家が流行ると思っています。今はみんな、檀家になるのを避けているけれど、概念をずらしていけば流行りうる。もともとあったものですからね。下手にどこからもってきたメンバーシップ制よりも馴染みますよ、きっと。一方で、今が正念場だなとも思います。檀家制度が崩壊しつつあり、お寺がなくなるという危機感を持っているのはごく一部なんです。もっと変化が必要だという意識が広まらないと、本当にお寺の多くが閉鎖してしまうかもしれません。
—— でもきっと、お寺に対する意識は、一般の間でも高まっていくと思います。今後、人間の精神の習熟度に関心を持つ人は増えると思っているんです。それは、世界が混乱状態になっていることの反作用なのですが。自分のことだけ考えていたらまずい、という意識の高まりはもう世界的に生まれてきていますよね。個人が社会のことを考えなければという機運が高まると、お寺が危機的状況であることに対する関心も高まると思うんです。
松本:未来の住職塾に来られる方たちは、これまで「うちのお寺をどうしていくか」という問題意識で来てくださっていました。でも、もうお寺のリソースだけで何かをやるのは無理で。地域社会の人、モノ、知恵、情報などとつながりながら大きい視点で行動していくことが大事だという流れが出てきています。だから、今期の住職塾はマネジメントにプラスしてリーダーシップを学べるようなプログラムにしたんです。一人の人、宗教者、そして地域に根ざしたプレイヤーとしての自覚を持ち、行動する。そういうリーダーシップを育てていこうとしています。
—— なるほど。それはとても今後の社会に必要なことですね。本日は、興味深いお話をありがとうございました。会社も近いので、時々掃除もしにきます。
松本:ぜひ。未来についての議論をするときには、光明寺の本堂もお使いください。この寺は800年以上ここにあるので、300年後はどうなっているかというディスカッションにもリアリティが出ますよ(笑)。
—— ご本尊の前で議論するのは緊張しそうですね(笑)。でもおもしろそうです。
※このブログは「Future Society 22」によって運営されています。「Future Society 22」は、デジタル化の先にある「来るべき未来社会」を考えるイニシアチブです。詳細は以下をご確認ください。
Future Society 22 ウェブサイト→http://www.future-society22.org