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Future Society 22, 2017年度活動を振り返る

~今問うべきは、テクノロジーではなく人間そのもの

FS22 代表幹事 柴沼俊一

2017年4月からスタートしたFuture Society 22。

スタートのきっかけは、「シンギュラリティ(技術的特異点)」に始まるキーワード群でした。

機械が人間の知能を超えると言われ、雇用がなくなる、資産・所得格差は拡大する、しかも「人生100年時代」がやってきて100年生きなきゃいけないと脅かされ……。「自分たちはもちろん、自分たちの子供世代が幸せと豊かさを感じながら生きられる世界を創ることは可能なのか?」というシンプルな問いが生まれました。

このような壮大かつボンヤリとしたテーマ設定の中で、職業、年齢、性別を超え、幅広い識者の方々にご賛同を頂戴しまして、ボランティアで語って頂きました。誠にありがとうございました。

パックス・アメリカーナ終焉の中で、数十年ぶりに地政学や国民国家の存在が注目を浴びています。一方、数世紀単位で眺めれば、モノ余り・デジタル化により、「工業社会+金融資本主義」が「限界費用ゼロ社会+共感資本主義」にシフトしつつある動きも見逃せません。

まず「限界費用ゼロ社会」へのシフトですが、SNS、シェアード・エコノミー、イーロン・マスクが手がけるエネルギー・プラットフォーム、Amazonが展開している購買プラットフォーム、中国のBAT(バイドゥ、アリババ、テンセント)など、領域は限られているものの、実際に限界費用ゼロ社会を支えられるインフラが出来つつあります。

一方の「共感資本主義」はアダム・スミスの著書『道徳感情論』でも同種の主張が語られており、決して新しいものではありません。これまでは社会活動の原理となるほどには社会に浸透してきませんでしたが、国連が定めた「SDGs(持続可能な開発目標)」が産業界で支持されつつある動きをみると、人類は個々の利益というよりは社会全体を意識した行動を選択し始めているといえるでしょう。Teal 組織などの本がよく売れる背景には、このような人間の意識の覚醒が進んでいることの証左とも言えます。

デジタル化は国の統治方法も変えつつあります。中国では、個人のスコアリングによって享受できるサービスの差別化が進んでいますが、このスコアが将来的には、国の統治に使われる可能性があるでしょう。つまり、中国の統治には秦の始皇帝が始めた官僚制統治に加え、習近平によるデジタル統治・階級化統治が織り込まれつつあるというわけです。

資産・所得格差の拡大は、公平・平等・分配の概念にも影響を与えています。意図しない失業が増加することを危惧するフィンランドやフランスでは、ベーシックインカムの実証実験がスタートしています。

このような複層的変化が同時多発的に起きているのですが、これまでの取り組みを通じて、「人間や生命への深い理解なくして、適切な問いかけはできない」と感じました。そこで今後は下記のように問いかけを変えていこうと考えています。

1.「シンギュラリティは来るか」ではなく、「人間・生命をどこまで理解できるか」?

「AI・機械が人間を超える」というシンギュラリティは本当に来るのかという議論がありますが、このシンギュラリティが問いかけている本質は、我々は実在としての人間を深く理解しているのか、あるいは今後それがどこまでできるのか、という点です。

つまり、構成要素に分解・統合することである時点での生命(存在)は理解できますが、平衡状態にある生命(実在)について分からないのであれば、本質的な意味でのシンギュラリティは到来しようがありません。映画にたとえて言えば、エンドロールを知っても、映画を見たことにはならないといったところでしょう。従って、我々が実在としての人間・生命をどこまで理解できるのか?というポイントを見定める必要があります。

2.「AI・機械は人間を置き換えるか」ではなく、「AI・機械は人間の意識をどう変えるのか」?

近い将来、AI・機械は今後加速的に進化して、多くのものを置き換えていった結果、人はどうなるのか? という点が議論になるでしょう。

例えば、人が楽しみや豊かさを感じることまでもが自動化されて、やることがなくなるのか、といったことです。ローマ時代は市民と奴隷に分かれた結果、市民は戦争に行く以外のあり余る時間を使って文化・芸術を楽しみました。また、さらに遡れば、言葉・言語が生まれた結果、不安・恐れといった心が生まれ、孔子の「論語」などの哲学・宗教が生まれたわけです。

AI・機械の進化は、人間の行動を省力化し、記憶の外在化を進める可能性があります。その結果として「ポスト心」を生み出すのではとも言われています。ポスト心はこれまでにない課題を人類に提示することでしょう。英国の欧州連合離脱(Brexit)や米国のトランプ大統領就任にはSNS上による大衆操作が行われていたという疑惑が取り沙汰されています。デジタル空間を介して人の心をマニピュレート(manipulate)することで大衆を揺り動かす「Post truth時代」の始まりともいえるでしょう。

3.「格差は社会を不安定にするか?」ではなく、「環境変化に適した社会をどう作るか?」

「格差」に対する議論が様々な角度で巻き起こっています。

ひとつは個の尊厳です。近代社会の特徴は、種の保存を客観視したうえで「個人の尊厳が種の保存を超えて尊重されるべき」という認識に人類が至ったことですが、危機的かつ飢餓的状況に陥ると、再び種の保存が優位になるようです。

もうひとつは豊かさに対する認識です。人類は人口増大、高齢化、格差拡大、地球環境の破壊といった課題に直面していることで、豊かさの格差を感じる社会から感じない社会への分岐点にいる可能性が高いのではないか、という議論があります。

共同体に対する認識も変化の時を迎えています。そのきっかけとなるのは限界費用ゼロ社会です。効率的なサービス提供のため、映画「ブレードランナー2049」のような超都市化が起きる一方で、限界費用ゼロ社会を可能にする技術は、「風の谷」(安宅和人氏対談参照)のように顔の見えるコミュニティを可能にします。ということは、地域集落の作り直しが可能になるかもしれません。つまり、環境変化に応じて、家族観や共同体意識といった「個」と「全体」の関係性が書き換えられる可能性があります。

上記の問いかけに適切に応えていくには、人間行動を支える価値観の変容が大事です。西洋哲学・科学では、物質と精神の二分法で世界を考えてきました。しかし、全てのものは、人間の認識によって存在しますし、存在は人間の認識によって状態として実在します。つまり、物質と精神は分けられないということです。

仮にVRでずっとゲームをし続けた結果高所から落ちても死ななかったという人がいたとしましょう。その人は高所を怖がらなくなる可能性があります。つまり、人間は見たいものしか見ない「認知バイアス」に陥りやすい存在だと言えるでしょう。

このように、人間の認知は可変的であり、人間の生命メカニズム自体が動的平衡であるように、「実在」を理解し直す必要があります。そして、「モノからコトへ」と言われて久しいですが、「実在としてのモノ」だけでなく、「実在としてのコトとは何か」を深く問いかけることが大事なのだと思います。

では、このような価値観の転換は、どのような行動様式やルールの変化を生み出すことになるのでしょうか?

「個と全体」
アダム・スミスは国富論で、自由意志を持つ個人がモノを交換することで、市場メカニズムが働き社会は最適化するのだと主張しました。同時に道徳感情論で、人間は他者に共感することで社会基盤が成り立っているとも言っています。近代社会は、前者に重きをおき、個人に自由意志があることを前提にコミュニティを組み立ててきました。しかし、21世紀に入り、人間は慈しみや共感する「ミラーニューロン」を持つことが証明されました。つまり、自由意志だけだと自己利益を追求しがちだが、本能として全体最適も目指す面を持つということが分かってきました。

近年、オープンイノベーションが流行っていますが、GiverだがTakerを外せる人々が集まるコミュニティは成功するが、TakerのみまたはGiverだけどTakerを外せない人々が集まるコミュニティは失敗するということと同じことなのだと思います。言い換えれば、形はオープンでも、心がオープンでなければ、うまくいかないということです。

「物質と精神」

VRの出現は、精神は身体感覚によって作り上げられるし、認知心理学の発達は、自らが見たいもの以外にはみることが出来ないバイアスに簡単に陥ることが証明されています。つまり、精神とモノは分離して存在できないということなのです。これだけ、情報過多になる時代では、情報を知っていることは無価値になっています。どれだけ、目の前にあるものをどれだけ意識できるか、あるいは自分が当事者になり切って直感を感じることが出来るかが、オリジナルな価値になってきていると言えます。

Post Truth時代に我々はいる訳ですが、認識を自ら補正し、対象に自らを投影することで直感力を高め、行動できる人財こそが、情報過多社会においてもオリジナルな価値を生み出す人財として活躍するということでしょう。

「時間と空間」

昔、ゾウの時間、ネズミの時間という本があったかと思います。体重の大きい動物は心拍間の時間が長く、結果寿命が長くなるというぐらいの認識しかありませんでした。しかし、よく考えてみれば、寿命を測る時間が、心拍数でカウントされるとも言えるし、細胞の合成と分解という尺度で測られるとも言えます。しかも、時間は過去から未来に流れるだけでなく、生き続けるために、未来を予測して先に分解を行っている面もあります。

大企業とベンチャーでの意思決定スピードの差は、まさに時間の尺度が変わっていることの証左です。焦点は大企業の意思決定スピードを引き上げられるかということになります。ただ、自然の摂理においては“合成”のためには“分解”がなくてはならないプロセスです。ということは、イノベーションの前に会社組織を揺り動かして壊すことが大事であるといえるでしょう。

最後に。

個人、企業、社会そして文明の発生・崩壊へと視野を広げると、驚くほどにフラクタルな構造であることが分かります。

企業経営では、個人は自ら学び、過去の経験を捨てつつ、前に進んでいきます。組織の中にいる個々人は年数を経ると退職するわけですが、口伝も含めた人と人の関係性によって企業文化が残ります。経営者はミッション、ビジョン、バリューを定め、社員やビジネスパートナーからの共感を得つつ、経営をスムーズに進められるように日々力を注ぎます。

ひるがえって社会に視点を打つと、人にも企業にも寿命があるがゆえに個人や企業は栄枯盛衰を繰り返していきますが、子が残り、市場で勝ち得た企業が生き残り、活動基盤たる都市には文化や価値観が腐葉土のように残ります。

1人ひとりは、限られた時間の中で限られた役割しか担いません。大きな時代の流れを創るためにも、意識を持ったコミュニティが必要なのだと思います。Future Society 22の取り組みは大きな時代の変革を担う、ひとつの川の流れになれればと思います。

とはいえ、人間のことはまだ分からないことだらけ。2018年度は、人間の可能性を模索する活動に取り組みます。

引き続き、皆様のご支援を賜れれば幸いです。

代表理事 柴沼俊一
 

※このブログは「Future Society 22」によって運営されています。「Future Society 22」は、デジタル化の先にある「来るべき未来社会」を考えるイニシアチブです。詳細は以下をご確認ください。

Future Society 22 ウェブサイトhttp://www.future-society22.org